顔出し

ネットには自分の顔写真とかは出さないようにしている。Twitterで顔出し祭りがあったときにちょっと出したけど。Twiiterやってる日本の人のほとんどは素顔じゃなくてお好みのアイコンにしている。俺もいつもはそう。前はマシュマー・セロ。今は熱気バサラ。別に大した意味はない。そろそろ固定したいとも考えている。
正直に言うと俺は素顔を晒したいという気持ちもある。でも、それ以上に隠したい気持ちの方が強い。だから今は隠している。
結局のところ、ローカルでの自分と、ネット上での自分を区別したいといえば一言で済む。ぶっちゃけ、職場の人とか友達にはこのブログとかネットでの行動はあんまり見られたくない。自分が本当にやりたいことと仕事が合っていれば、というか職場の人に認められたいって思っていればそうするだろう。でもそうは思ってない。尊敬しているブロガーの人たちには、自分がどこに勤務しているか明記している人が多い。人に知られたくない活動を別でしたければ、どっかで別のアカウントとってやってればいい。仕事中にTwitterやったりブログ書いたりは、こそこそやるべきじゃない。やるならちゃんと許可を得てからやるべき。とは思っている。ブログ始めたばかりで書きたくてしょうがなかった頃は思いついたものをその場で書いてしまうこともあったし、Twitterは今もこそこそやってる。まぁ、そんな頻繁に書き込んだりしてないけど。
Twitterに関して言えば、素顔でやるよりアイコンでやった方が面白い場合がある。いろいろ遊べるからね。あとはどのブログの所有者かを明記しておけばいい。
ブログに関して言えば素顔を晒したところで個人が特定できなければ本質的な問題にはならないと思う。不細工だのイケメンだの言われるくらいだ。ブログのイメージとか精神的なダメージを伴うかもしれないけど。有用なブログであればあるほど、個人が判別でき、その人がどの地域に住んでるか、どこで働いてるか、コンタクトがとれるかは社会的価値に繋がると思う。同時にネットに晒す危険性も伴うわけで、そこの判断が微妙に分かれるところ。2chで祭られたり、ブログでDISられたりして社会的にまずい状況に陥るような可能性を恐れるなら個人が特定できるような状態にはしないだろう。そうはならないブログの書き方や自己防衛ができると判断すれば晒すものだと思う。どちらに転ぶかは、結局のところ、ブログの書き手の人間性が他人に認められるかどうかではないか。
ブログでもTwitterでもそうだけど、米国では素顔を晒してる(と思われる)人が多い。お国柄というのだろうか、日本はやはり素顔を隠す傾向がある。上記のような判断が米国ではされないんだろうな。ネットってテレビと同じようなイメージを持たれているかもしれない。まぁ、ネットにさえ繋げれば誰でも見れるようになっちゃうんだから間違ってもいないけど、瞬時に大多数の人が見るものでもない。恥ずかしいという感情的部分も大きい。どっかに心理学的結論が出てるかもしれない。
自分はまだネットで情報収集したり、アウトプットしたり、コミュニケーションをとったりすることを始めて間もないと思っている。少なくとも自分の目指すところは遥か遠い。かといって今の自分は着実に歩を進めているかと言えばそうではないと思う。ブクマするばかりで、満足するほどコードも書けてないし、本も読めていない。時間のやりくりが下手だとか、他の趣味に時間を割き過ぎていたりとか、酒飲んでばっかりだとか。こういうこと考えてるとどこまでも行ってしまう。考えてもしょうがないんだ。行動しないと。時間がない→仕事なんかやめてひきこもれ。金がない→借金しろ。時間ができた→やらない。これじゃ意味がない。だから今の状況でできることをやれ。余裕なんかなくせ。体壊すギリギリまでやれ。むしろいっぺん死んでこい。
これくらいまでやれないと自分に納得いかないだろうな。納得できなければ堂々と顔を晒す気分にはなれない。やっぱり感情的な部分が大きい。毎日の充実感なんて大学の頃に自宅サーバLinuxやらFreeBSDやら入れて遊んでたころ以来感じていないような気さえする。あの頃は不健康だったけどシャカリキだったなぁ。いつまでもちんたらしてる場合じゃないな。休む楽さを覚えてしまうと途端にふぬけになる。気合い入れ直さねば。そしてこんなネガティブなエントリーは最後にすべき。
中二病的だ。つーかそんな考えはこの年になってするもんじゃない。すでに通り過ぎているべき。
なあなあな人生は送りたくないなあなあなあなあなあ